2024年3月8日金曜日

夢日記・近況

 たぶんピアノを買い替えるとかいう話で行ったのだと思う。中古屋さんに行くとそこは海の上だった。

いくつかのピアノが透き通った青緑の海の上で不安定にぷかぷか浮いていた。ピアノなんて、でっかくて重い鉄板にチューニングピンが埋め込まれてるのだからすごく重いはずなのだが、重くて沈まないのだろうかと思って、おそるおそる触ってみた。ピアノはゆらりと動いた。思わず沈むかと思って目を背けたが、目を戻してもどうやらそのまま浮いていた。

それ以上さわるのが怖くて、浮いているピアノを離れ、屋内の方に行った。

ピアノは海上に直接浮いている分だけらしくて、屋内スペースには無かった。屋内スペースには大工道具やコーヒーカップやゴミ箱やマネキンなどが雑然と置いてあった。店員はいなかった。

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CDはおおむねできている、というか、ときじく移転の話であわてて試作版を作って売ったので、もう売ってしまっているのだが、自分の中でまだベストを出しきれてないのではという気持ちは拭えない。しかしいつまでも拭えないのだろうとも思う。見切りどきが難しい。

ともあれ、近日中に販売開始する。する場所がないかもとかいう話は別として。

なんというか、けじめとしてソロ演奏をここで記録しておくというのは必要だろうと思う。

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椿は咲いてきた。沈丁花は匂っている。梅は嗅いでいない。





2024年2月28日水曜日

牧水とか

 「牧水の恋(俵万智著)」を読んだ。若山牧水についてはよく知らなかったのだが、いやはや。なんというかロマンチックな人だったのだなあ、と。

しばらくこういう理不尽なロマンチックさに触れていなかったので、なんだかぼうっとしてしまった。そうだよな、理屈じゃないんだよな、と思った。わけもなく悲しい気分とか、わけもなく感じる全能感というのは確かにあって、それは自分の中で無意識に湧き出して同化できるものだったんだよな。 

と書いている今小さな地震があった。いつか、そのうち大地震があっていろいろなものがぐしゃぐしゃになるかもという不安がずっと頭の片隅にある。と同時に、なるようになれという、竜巻におびえるフィリフヨンカのような気持ちもある。

2024年2月26日月曜日

近況 20240226

 なんだかぐずついた天気がつづくなあ。

最近いくつか凹むことがかさなったので、なかなかやる気が出ない。まあしょうがないのだが。それでもちまちまと出来ることはやらねば。

空也蒸しという料理を作ってみたいなと思っているのだが、いつも茶碗蒸しをつくったところで満足してしまい、なかなかあんかけを作ろうというところまでいかない。いや、これはそのうちに、ちゃんとやってみるつもりだが。

しかし空也という人は口から仏様を出すだけでなく、面白い料理も考えていたのだなあ。

先月、いつも2つあるはずの料理用のざるが、1つしか棚に無くて、はて、どこに行ったのだろう困ったなと思っていたところ、今月になりなぜか棚の中で3つになっていた。時々こういう説明のつかないことがある。怪異というほどのことでもないのだが、どこかに妖精でもいるのかと思ってしまう。

まあ基本は怪力乱神を語らずでやってゆきまするが。


2024年2月2日金曜日

近況 20240202

録音作業を仕上げようと思うのだが、やはりライブ準備を優先して、と考えいろいろずるずる遅延している。いや、あとちょっとなんだけど。

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京都市長選が近い。私は政治にあまり興味がないし、選挙の時はいつも選挙公報を読んで、まあマシそうな人に入れるということをしているだけだが、今回はSNSやYouTubeから入ってくる情報があっていつもより候補者の顔が見れる感があって面白いなと思う。(具体的に書いてもいいが変なところで敵を作りたくないというのもあるので割愛)

そういえば、うちの父親は今川市長の息子と同級生で、仲が良かったということだった。小さい頃何度か出会ったような記憶もうっすらあるようなないようなだけど、話を聞ければ面白かったかもしれない。

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お料理メモ。

燻製の下味に中国醤油を使うのはかなり良いが、肉を漬け込む時だけにしたほうがよいかも。というか肉で使った時に効き目が明らかになる。




2024年1月5日金曜日

私論による詩論の試論

 以前、たまたま、近所の詩人たちによる詩の朗読会というものを見る機会があった。(こういうことをすぐ書くと当人たちに知れて心証を悪くするものだと思うが、けっこう昔のことだし時効かなと思って書く)正直、退屈だった。

ただ、その時思ったのは、「詩の良し悪しって、なんだか評価しにくいな。どこが退屈だったかもうまく言えない。」ということだ。

例えば俳句なら、明確なルールがあるし、それを基準としてある程度はよいかどうか判断できるのに 口語自由詩ではそれが難しいのは何故だろう。

おそらくは、詩によってルールがばらばらで、それが一元化されてない、ということじゃないかと思うのだ。(と書いてみたが、それほど詩論などをちゃんと読んだことがないので、もしそういうものがあるのだったらごめんなさい。)

じゃあ、そのばらばらの現代詩たちはどこを目指してるのだろうか、ちょっと考えてみようと思う。うまくいけば、はじめてよくわからない詩に出会った時も無駄にもやもやしなくてすむようになるかもしれない。

 


書き物の分類、ということで私が頼りにしているのは漱石の「文学論」なので、(当人は完成前に崩れた不完全なものとしているが)それによって考えていくことにする。即ち、「知」「情」「非人情」が表現する目的の主要素だ、という考え方を進めてみよう。もちろんそれだけでは足りないのは分かってるがそれについては後述する。

さて、「知」つまり知性に訴える類の表現のことである、と文学論にはあった。これはくだけた言い方をすれば、「うまいこと言ってやった系」ともいえると思う。うまいことやった系と言うと、世間知だけを指す感じになるが、それだけではなく、この分類にイデオロギーや哲学も含むものとして考えたい。

世間知という分類だと川柳の大部分がこれに入ると思う。 それから、シェイクスピアの詩や一部歌謡曲などもそんな感じだ、一見情に訴えてるように見えて、うまいこと言ってやった感が強い。

イデオロギー、これはかなりの部分の日本戦後詩が含んでいるものだろう、この辺ややこしいのでまた後で考えようと思うが、吉本隆明氏や安東次男氏やなんかの多くの詩人の詩がイデオロギーと暗喩のミックスで読み解けると思う。哲学方向で行けば、宮沢賢治がいる。あと、説明が難しいが谷川俊太郎氏の詩も知性に訴える要素が多いような気がする。 この辺はもう「うまいこと言ってる系」というより、「考えさせられる系」だが。

ともあれ、雑なようだが知性を刺激させられる系のものをこれでひとくくり。


 

「情」は感情に訴える類の表現のことだ。大部分の短歌、与謝野晶子や石川啄木、 


…いかん、文が長くなりすぎる。根が切れてきたので、とりあえずここまでにして、また別に書くことにする。

ざっと概要を書くと、「情」と「非人情」について書いたあと、メタファーと「思わせぶり」について触れて、リズムについて書いて仕上げるつもり。ほんとに書けるのか?

 

2023年12月17日日曜日

断片的夢日記

 修学旅行の夜のことだったと思うがよくわからない。

夜の海辺の町に居た。青白い街灯に照らされて居た。

 上の方に通っている道のトンネルから大きいタンクローリーが 出てきて曲がろうとするのが見えた。これは曲がり切れないだろうなと思う。つまりこれは危険だから逃げなくてはと思っているのだが体が動かない。そうしているうちに、どんどんタンクローリーは道路をはみ出してくる。動かなきゃと思うのだがやはりうごけない。タンクローリーの動きもやけにゆっくりだ。動けと思うと手足がようやくゆっくりと動く。気が付くと下のテトラポットのあたりまで飛び降りている。つんのめって海に落ちたらどうしよう、寒いだろうなと一瞬思ったがなんとか踏みとどまる。

その時、頭の上の方を暖かい物が通り過ぎていく感覚があって、さてはタンクローリーが落ちて炎上したかと思う。上の道路によじ登ってみるとはたして、道脇の芝草が皆焦げている。

しかし爆音は無かったのは何故だろう、と思いながら立ちすくんでいる。

2023年12月13日水曜日

じわじわ、カッコつけるかカッコいいか

 ついついぼんやりみてしまうYouTube、「8番出口」ゲーム実況を見てしまった。じわじわくる静かな怖さはこれはまあキューブリックの「シャイニング」のオマージュ、というのは結構多くの人が言っていると思うんだけど、うんそうだよな、と思いつつなんかピンと来てないのは、私自身「シャイニング」がそんなに面白いと思ってなかったからだろうな。ずいぶん昔に見たけど、もやっとした演出に「だから何だ」と思ってしまった記憶がある。

しかしながら、逆にこういうゲームでのリスペクトの形で見せられるとそのよさがわかる。 なるほど、こういうじわっと怖い系が好きな人もいるのだな。

そういえば先日バーに行ったとき、四方山話として内田百閒の「冥途」を読書会で読むのだという話を聞いたが、あれもじわりと怖い系の話ではないか。多くの部分はわからないままに隠されている、隠されているままなのが怖い。のかもしれない。私の好みとしては漱石の夢十夜のほうが好きなのだけど、それはそれとして。

 


 

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友人の個展を観に行って、カッコいいということとカッコつけるということの境界線について考えた。

自己演出としての表現、という傾向を持つ人は結構いるし、それは別に悪いことではない。しかし、それを自分の中でどう消化するかというのはなかなか難しい問題のような気がする。文学で言えば、山頭火や太宰のありかたをカッコつけているという人はいるだろう、カッコいいという人もいるだろう。 

でもそれは彼らが選べるものではなく、そうなってしまった人が必然的にそうあってしまうものかもとも思う。

ただ、受け取る側としては、そういう自分演出とかそういうものを超えた地点を見たいと思うんだよなあ。